中学生の頃、「力の合成」というものを習った。
例えば、物体に2つの方向に違う力をかけたら、物体はどの方向にどれだけの力を受けるか、というような話です。
ご承知のとおり、最初の2つの力それぞれを、その方向に力の大きさに応じた長さの矢印で描いて、それを各1辺とする平行四辺形を作り、物体から平行四辺形の対角線を結んで描いた矢印が、合成された力の方向と大きさになるというものです。
友達は誰も気にしていませんでしたが、私には、 「何で平行四辺形が出てくるんだろう?」と、もやもやした気持ちがあった。
その後、高校でベクトルというものを習い、当時から数学や物理は苦手で、テストはいつも散々な結果でしたが、
x方向、y方向の成分に分けて考えれば平行四辺形になることが分かった。
こういう粘着質というのか、他人が気に掛けないことを気にする性分は、この頃既に醸成されていたようです。
その後数年経って、この問題は私的には一応解決しました。
自然科学では、ある事象や現象があって、それを説明する理論が作られ、実験や観測(天文学など)で確認するというのが一般的です。
この順番が前後することがあっても、最終的には実験や観測で確認し、世界中で誰が実験等を行っても同じ条件下なら同じ結果になる、ということが要求されます。
少し大袈裟になりましたが、「力の合成」の話も、先に現実の事象があって、それを説明するのに数学の世界にある「ベクトル」という奇妙な「量」というのか「概念」というのか、そういうものを使うと、ちゃんと説明ができて、確認できるというだけのことだと分かりました。
まあ、ベクトルというのも元々、物理学の方から出て来た概念ではありますが。
これは前に「Let It Be」のところで書いた
「変えることができないものは受け入れなさい」ということと似ているような気がします。
「お前(私)がいくら異論を唱えようと、そうなっているんだから、しょうがないじゃないか」
と天から言われているような気がします。
当時から私は我儘だったのでしょうね。
もし、当時の私のような中学生がいて、1人でも、そのもやもやが解消されればいいな、とおこがましくも思っています。