「自分のことは棚に上げて」という話

また、変なことを思い付いてしまった。
あまり深く考えた訳ではなく、また、いつにもまして賛同する人はいないと思うので躊躇いがありますが、少し書いてみます。

よく政治家や著名人の発言が、net上などで「自分のことは棚に上げて」と批判されることがあります。
私も厚顔無恥は大嫌いなので、そう思うことが多い。

「自分のことは棚に上げて」を今風に言うと、「おまゆう」とか「あんたには言われたくない」といったところでしょうか。

そして多分、多くの人たちと同様に、嘘・卑怯・裏切りなども嫌いです。

「嘘」という言葉の定義を例えば「自分が認識している事実と違うことを人に伝えること」とすると、「人を傷つけないための嘘は良いのではないか?」という話も出てくるかも知れませんが、それは状況によると思うので、議論するつもりはありません。

話を少し戻すと、好き嫌いで片づけてしまうのもどうかという気がしますが、まぁ、私はそのようなものを嫌悪する気持ちが強い方だと思う。

ところで、少し離れたところから見てみると、私がそのような嫌悪感を抱くのは、ひょっとしたら過去の自分に同じような言動があって嫌な気持ちになったからではないか、という思いもあります。

だからといって、たとえそんなことがあったとしても、別に反省するつもりはありませんが、心理学でいう「投影」という概念に当てはまるのかも知れないと思います。

また、そもそもある程度「自分のことを棚に上げ」なければ、特に他人を非難するなどできないのではないかと思ってしまう。

 

それでまた話が飛びますが、「自分のことは棚に上げる」というと、私は聖書のイエスの言葉を思い出してしまう。

いつもながら曖昧な記憶ですが、今では検索して調べることができるのでとても便利ですね。
「石打ちの刑 姦淫の女」などで検索すると出て来るようです。

以前「今の日本人とキリスト教」という、今読んでみると少し恥ずかしい投稿をしたことがあります。何故、日本ではキリスト教は広まらないのかといった疑問があって思い付いたことを書いたものです。

やはり私を含めた多くの日本人には、「お天道様が見ている」という言い方はしっくりくるが、キリスト教の教会などで、「人は生まれながらに罪を背負っている。そして神を知らない罪、神に背く罪がある」などと言われると抵抗感があるのだろうと思います。

しかしながら、私的には同時に聖書には素晴らしいことが書いてあるというのも事実で、特にイエスがファリサイ派の人々に試される質問をされたとき、つまり二者択一でどちらの回答をしてもイエスが罪に問われるという場面で、いつもイエスが超人的な発言をしていることには感嘆しています。

自分の好き嫌いの話をダラダラと書いてしまいましたが、聖書の言葉を引用して終わりたいと思います。
この中の、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」というところが特に気に入っています。

 

イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(日本聖書協会 新共同訳 ヨハネ第8章第1節~第11節)

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